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Zieglerモデル(胚子立体モデルの歴史)

19世紀末から20世紀初頭、ヒトの発生が記述されるようになると、複雑な変化を理解するため、また得られた情報を広める手段として立体モデルは自然の成り行きとして登場して来ました。その原型は発生学者によって作られましたが、より専門技術を持つ”modeler”に立体モデルの作成は任されるようになります。多くのmodellerが活躍しましたが、その中でZiegler親子が作成したモデル群は、科学的な根拠に裏付けられた一方、芸術的でもありかつ堅牢なもので多くの支持を得ました。Zieglerのモデルの多くはHisの観察データをもとに作成されており、モデルの説明には、”nach His”と書かれています。1893年シカゴで行われた博覧会に出展されたモデル群は、まさに人類の誕生、進化を可視的に体現したものとして賞賛を受けました。

当時2次元の情報を3次元にかつ拡大する技術は容易ではありませんでした。Ziegler はそれをFree handで職人技として行いました。それは隅々までの解剖学的な理解と芸術的な精巧さが必要でした。彼はノギスで測定しヘラやスプーンを用いてひとつひとつ微調整を繰り返し、作品を作り上げて行ったのです。小さな平面上の情報を立体可視化したそのインパクトは相当なものだったと思われます。Zieglerはその息子とともに工房を南ドイツFreiburgに設立しました。その小さな兄弟会社は、半世紀の間の活動中に、多数の有名な模型を世に送りました。

モデルの作製法は技術革新がありました。ミクロトームを用いた連続組織切片を元に1断面づつの平板を作成して積み上げて行く方法(stacked plate method)が、Born G(1851-2000)らによって行われるようになると、作製法は平易で、早く安く客観的になり、モデル作成の間では標準的な方法になりました。しかし、Zieglerのfree hand法を信奉する発生学者も多くみられました。科学の進歩とともに発生学の分野も、事実の記述中心の研究から実験を主体とするものに変貌しました。それに伴いZieglerのモデルの需要は減少し、やがてひっそりとその歴史をとじました。しかし、輩出された多くのモデルは、ヒト発生学の体現としてヨーロッパやアメリカの大学で使われ続けました。それは、ヒトとは何か、どうやってつくられるのかーといった人間誰もが一度は抱く崇高な問いに対する解のひとつと言えなくもありません。

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